ヒーリング・フォレスト~物語と癒しの森から~

心理カウンセラー・執筆家による気づきと悟りへのメッセージ

奇跡

自分がいかに恵まれた生活をしているのか、普通でいられることがどれだけ幸せか、でも、その普通な生活に慣れきってしまい、不平不満をもらしてしまう。

 

人って 贅沢です。

フツーでいられること、フツーな生活、ありふれた日常。たぶん、その逆が「奇跡」という言葉で言いあらわされるのかもしれません。

 奇跡的な出来事とか、奇跡の出会いとか、めったに起こらない、とんでもないことの例えとして、多少の憧れをこめて使われがちな言葉です。

 皆さん、奇跡にふれたいですか。奇跡を生きたい、奇跡を感じたいですか。

これから、すでに誰もが奇跡を生きている、という話をします。

だからといって、かつての私の奇跡的な体験とか、神秘的な出来事とかお話するつもりはありませんし、そんなの必要ありません。

 私たちがただ生きて、生活しているという、客観的な事実と、ちょっと科学的な知識をお話します。

ところで私は大学で心理学を学びましたが、子どもの頃からずっと理系男子で、科学も大好きでした。

 科学、いわゆるサイエンスというのは、学べば学ぶほど、この世のなかはもちろん、私たちの存在、日常、生活そのものが、いかに奇跡的で、奇跡のうえに成り立っているのかを、イヤでも考えざるをえなくなります。

そして奇跡が、めったに起こらない、とんでもないことではなく、それどころか、いつも起きていることだと知ってから、私はその一日、その一瞬を、より大切に生きたいと思えるようになりました。

 私たちの命、その源はアミノ酸といわれ、その最初の分子は、4億年前の海から「偶然」に生まれたと考えられています。

でも、それを「偶然」というには、それこそ奇跡でもないかぎり起こらないような偶然なのです。

一つの生きた細胞ができるためには、約1000の酵素が、決まった秩序のもとに集まらなければなりません。

そして数十億年という長い進化のあいだに、偶然と偶然のかさなりあいを経て、いま私たちがここに存在している、生きている、ブログを読んでいる確率は、10の1000乗分の1。

つまり、ほとんど0(ゼロ)ということになります。

そうです、奇跡でも起きないかぎり、ありえません。

 私は大学のときに、イギリスの分子生物学者でDNAを発見したフランシス・クリックの本を読みましたが、彼はアミノ酸から、遺伝子を形づくる分子が「偶然」できるまでの確率を計算しました。

すると、それが自然にできるには、少なくとも10の15乗、つまり宇宙の全年齢よりも10,000倍も長い時間がかかることになります。

 奇跡でも起きないかぎり、ありえません。

いま、私たちがここに存在している確率とはどれほどのものか、他の学者も計算しています。

それによると、たとえばどこかの穏やかな浜辺に、いきなり突風が吹いたとします。舞い上がるおびただしい砂。

そして砂嵐が去った後、砂煙の向こうに、砂でできた、実物とまったく同じサイズの、細部までまったく同じ巨大な大阪城が現れる確率と、ほぼ同じ確率だそうです。

さらに、他の学者の計算では、途方もなく優れた腕前のプロゴルファーが、地球のどこかのホールから、ゴルフボールを打つとします。

そのゴルフボールが、空を横切り、大気圏を抜け、宇宙空間を飛び、火星のどこかにある、ホールのピンに直接入る確率と、ほぼ同じ確率だそうです。

どんな人も、ただ存在している、生きているというだけで奇跡にふれているのに、ふだんそれを意識しない私たちは、そのうえにさらに奇跡を求めようとします。

そんな人と人との出会いからしてすでに奇跡なのに、それをあたりまえのことに感じられて、さらに奇跡の出会いを求めようとします。

 天文学的な途方もない確率をクリアして人として生きているのに、その確率に比べたら大したことはない宝くじが外れると落胆します。

すでに奇跡的な存在なのに、暇たんとか、つまらないとか言いながら毎日過ごしている場合ではないな、という話でした。

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